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第百十話 もうひとつの熱風録(2)

 勉強よりも防空壕掘りに明け暮れた母の尋常高等小学校時代は、終戦と共に終わりを告げました。その後両親を亡くし、やがて20代になった母は、諫早の農村を出て、雲仙の麓・島原の某大手旅館に勤めました。実はその旅館が、父との運命の出会いの場所となったのです。何となくロマンを感じますが、実のところテキ屋をやっていた父が流れながれてフラリとそこの旅館に現れ、仲居をやっていた母を見初めたというワケです。 路上に広げたマガイ物を流ちょうな講釈で売りさばき、そそくさと別の町に移動するというヤクザなテキ屋家業の父でしたが、ルックスはまるで映画スター並み(息子の自分が言うのも何ですが)でした。そのマガイ物屋の映画スターは言いました。「あんた、こもしてえーらしかの」(君は小さくてカワイイね)「久留米に来んや?」 身長140センチ足らずの母は、久留米弁が解らないまでも、父の男気を漂わせる雰囲気とルックスに参ったのでしょう、二つ返事で久留米について行くことを決めたそうです。父との約束の日、母は島原から汽車で来ました。いまもJR久留米駅の北側に筑後川に架かる鉄橋がありますが、そこから初めて筑後川を見た母は、本気でそれを〈海〉と思ったそうです。母の村には〈大川〉という川が流れていますが、それは名ばかりで、水深30センチ・川幅2メートル程の小川です。母の中ではその小川が一番大きな川でした。それが九州一の大河・筑後川を見ても、それは〈海〉と思うしかなかったのでしょう。狭い山村育ちの母はその後も、久留米で見るもの聞くもの、驚きの連続でした。 それにしても、国鉄久留米駅で母を待つ父の姿は、くわえタバコで壁にややもたれる感じで、それはそれはカッコよかったそうです。 かくして2人は所帯を持つこととなり、これを機に父はテキ屋家業から足を洗い、兄と一緒にラーメン屋台を営むことになりました。その屋台の名は〈清陽軒〉、所は明治通り第一勧銀前(現在のみずほ銀行。当時そこの交差点は、パリのエッフェル塔前のようにロータリー式の交差点になっていて、その〈ロータリー〉という呼び名は現在も残っている)。昭和20年代後半のことでした。やがて父兄弟は、それぞれ所帯も持ったし、お互いに一国一城の主になろうということで、父は清陽軒から独立し、西鉄駅前の佐賀銀行前で新たにラーメン屋台を開業しました。その屋号は〈大砲ラーメン〉。そう、その一軒の屋台こそが、いまの僕の家業の原点です。昭和33年生まれの僕が物心ついたときには、屋台の前の歩道が僕の遊び場になっており、いつもチョークで歩道に絵を描いて遊んでいました。それはいいとして、母は映画スター並みのヨカ男と結婚はしたものの、いざ一緒に暮らしてみると、その映画スターは大変な暴れん坊だったのです・・・