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第十九話 幻のラーメン(下)

 ラーメンを初めて食べた日本人は、はたして水戸の黄門様か?はたまた柳川の殿様か?ときは平成十一年一月二十日。天下分け目のラーメン合戦は、ホラ貝ならぬニュースステーションのテーマ曲を合図に、イキナリ柳川藩主(直系の子孫)T氏と水戸の郷土史家(?)の一騎打ちとなりました。
 まずは先手を取った柳川のT氏が「朱舜水は水戸に招かれる前に何年も柳川藩に世話になっていた。当然そのお礼にラーメンを献上したはずだ」と切り出しました。水戸側はすかさず「こっちには、その朱舜水の記録もラーメンのレシピも残っている」と、くやしかったらこれ以上の証拠を見せてみろと言わんばかりに切り返す。
 すると行司役の久米氏が「ということは、柳川の負けですか?」と、あおり立てる。
すると柳川藩主は「この無礼者!手討ちじゃ!」・・・とは言いませんでしたが、ただ静かに「柳川でラーメンを食べてないという証拠もない」と論破。
 ~やがて両者一歩も譲らぬ果てしなき戦いの様相となるも、放送時間の都合であえなく終了。ついに軍配はいずれにもあがらず此度(こたび)のいくさは幕切れと相成り候~かくのごとく日本最古のラーメンは“幻”のまま、遙かな歴史の深奥に封印されてしまいました。
 
 ということで、二年ほど前のラーメンにまつわる楽しいエピソードを書いてみました。そこで歴史の話が出たついでといっては何ですが、恥ずかしながら私めの「ラーメン史」の基礎講座(?)を少々。サテ、日本のラーメンは明治四年の日清修好条約後、横浜・神戸・長崎に置かれた中国人居留地(南京街:今の中華街)に誕生した中華料理店の麺料理が、一般的にはそのルーツといわれてオリマス。ところが、ラーメンは中華料理店で食べる中国の麺料理からいつのまにか独立してしまい、いまや新たな日本の国民食になってしまった感があります。
 そのラーメンが南京街を飛び出したのが明治の後期、“支那そば(または“南京そば”)”という名で東京の屋台に ちらほらと姿を現しはじめ、やがてその味は、日本人の手で日本人に合うように改良されて、現在のラーメンの原型が形づくられてきたのであります。
 やがて“支那そば”は戦後“中華そば”そして“ラーメン”と、その名を変えながら現在に至っておるのす。ちなみにそのラーメンを“九州ラーメン”“東京ラーメン”“札幌ラーメン”と、大きく三つの源流に分けると、その発祥の“店”は次のようになります。
 
 まずは明治四十三年東京・浅草の「来来軒」。横浜の中華街を飛び出した支那そばがこの店で大評判となりました。この支那そばが、東京ラーメンの原型といわれています。
 次に大正十二年、札幌農大(現在の北海道大学)前にあった「竹家食堂」。農大の中国人留学生のために出していたこの店の“拉麺”が現在の札幌ラーメンの源流といわれており、またその“拉麺(ラーミェン)”が“ラーメン”の語源となったという説もあります。
 そして最後の源流は、久留米の屋台「南京千両」を発祥とする“九州ラーメン”。この店は、旧日本軍が中国・南京を占領した昭和一二年に開業しており、創業者・宮本時男氏が当時の戦勝記念の意味を込めて命名したこの屋号には、そのまま日本の歴史を感じることができます。さらに、その発祥の屋台が現在でも営業されているというのは、ラーメン史の奇跡とまでいわれてオリマス。・・・と、チョットばかりアカデミックな話をしてしまいました。しかしまあ自分も、とんこつラーメン発祥の地は久留米だクルメだと、ワイワイ騒ぎながらまちおこしなんぞやっとりますが、上には上、昔には昔があるもんです。まして三百年前の黄門様からは「まだまだ青い」と一笑に付されそうです。
 ところで「頭の足しよりハラの足し。その柳川のラーメンはいつ食わるっとや?」という貴兄の声が聞こえてきます。心配ご無用。実は、恐れ多くも柳川のお殿様より私めへ「日本初のラーメンを作れ」という勅命をいただいたのでアリマス。そして苦労の末それは完成しました。その味を文字で表すと「九州山海珍味盛沢山的清湯系醤油柳麺」といったところでしょうか。
 詳細報告はいずれかの機会に。 本日はこれにて。