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第四話 なぜ家業を企業に

 昭和45年、私が小学6年のころでしたか、両親が心機一転、十数年営んできたラーメン屋台を閉じ、小さいながらも店舗(現在の大砲本店の場所)を出して2、3年経ったころの話。夫婦2人だけで店を営んでいた当時は、ラーメンの「出前」もやっていました。私の親父はスーパーカブの荷台に、車体が傾いても出前箱は傾かないという画期的な装置を搭載し、颯爽(さっそう)と市内を走り回っておりました。余談ですが、その出前装置と、汁がこぼれにくいようにビニールと輪ゴムを組み合わせた「ベリカバー」。いずれも久留米人の発明と聞いています。そんなある日、親父は出前中に事故を起こして緊急入院。全治1ヶ月以上という事態が発生しました。さあどうする大砲家族。しかし、どうするもこうするも店を閉じる訳にはいきません。収入がゼロになるのは当然のこと、賑やかな明治通りの人気屋台から一転、何を思ったのか辺鄙(へんぴ)な住宅街に出店したばかりに、新規の常連客もなかなか着かない状態です。ここで親父の入院期間休業すれば、わずかな常連さんも離れてしまいます。暖簾(のれん)とはそういうもの。決して下ろしてはならないものです。
 そこで母は1人で店をやる決心をしました。私も平日は学校から帰宅後、日祝日は終日、母を手伝うことにしました。唯一の兄弟である弟はまだ幼いのでその世話も私がします。
 さて、その臨時体制でのぞんだ最初の日曜日のこと。その日はいつになくお客さんが多く、次々に注文が殺到します。接客と洗い物しかやったことのない母は、「職人」である親父の見様見真似で頑張っていましたが、「まだか!」「まずいぞ、オヤジは!」「もういらん、帰る!」そんな怒号に、ついに「もうできん!」と叫ぶや、両手で顔を覆って厨房の床に座り込んでしまいました。私は両手に丼を持ったまま、ただ呆然と母のその姿を見ていました。そのとき私は強く思いました。「夫婦だけの小さな商売とは、一見ほほえましいかも知れないが、もろくて危険な綱渡りだ」と。
 現在、大砲ラーメンは県内外に11店舗あります。25年前、私が30歳で正式に2代目になった折、最初にやったことは、まず外部の人間を雇い、技術を伝え、1人前の職人を育てることでした。同時に少しずつ身内を店から外していきました。さすがにこれには両親から強い反発がありました。他人にラーメンスープのノウハウを教え、レジの現金まで扱わせということは、細々と家業を守ってきた2人には考えられないことだったのでしょう。さらに翌年には、まだ本店1店舗しかないときに株式会社を設立しました。それは1にも2にも弟子(社員)の地位向上と社会的な安定感と安心感を持ってもらうためでした。やがて、2年から3年に1店舗のペースで出店。それはあくまで「結果」です。というのは「いつかは店長に」という思いで頑張る社員たちへのご褒美としての出店なのです。よくある「ラーメンを利用したカネ儲け最優先の店舗展開」ではありません。現在の大砲ラーメンの姿の出発点は、43年前、私が小学6年のときに見た「厨房の床に座り込んだ母の姿」です。いまの大砲があるのは、やはり母のおかげです。

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