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第百十五話 幻の脚本④

前号からの続き

 映画「ラーメン侍」幻の脚本シリーズ第4弾、今回は映画との微妙な違いをお楽しみ頂きたい。

5 火事場の枕

〜前略〜

 「のぼっちゃん、嫁ば取っ替えたとね?」昇はラーメンに具を乗せながら、山村の冗談に不愛想に答えた。「ばかたれ、嘉子はそろそろ臨月やけん、家に置いとる」
 そこに、静かに暖簾をくぐりながら1人の客が入ってきた。それは若い男で、薄汚れたみすぼらしい作業服を着ている。男はズボンのポケットを探りながら、やや緊張したように昇に訊いた。

 「酒はいくらですか?」昇は山村にラーメンを出しながら答えた。「60円」
 男は10円玉や5円玉の小銭をカウンターに並べながら懸命に数えはじめた。
 山村は両手で抱えた丼のスープをすすりながら男を見ている。
 昇は無表情にチャーシューをスライスしている。
 小銭を数え終えた男は、安心した様子。「酒、1杯ください」「はいよ」昇は湯気越しに、男の前に七勺コップをトンと置くと、1升瓶から酒を注ぎはじめた。酒はなみなみとコップを満たしてゆく。その間、男の表情は何とも幸福な顔をしている。
 昇は思った。『コイツは相当の酒好きばい。俺の仲間ばい』
 酒は満たされてコップの口を表面張力で覆っている。男は、女が宝石でも眺めるようにうっとりと酒の揺れる膨らみを見ていたかと思うと、おもむろにコップに手を出した。
 昇は心で叫んだ『バカ!口から行け!』
 その瞬間、表面張力は壊れ、さらにそのもったいなさに慌てたのか、男はコップそのものを倒してしまった。横で見ていた山村も思わず「あっ」と声を出した。

* (光)『後日父ちゃんはその光景をよく僕に語りました。「ありゃ、やっぱり酒好きばい。コップが倒れた瞬間、コップの口がカウンターに触れる直前に引き起こした。俺の伝説の左パンチ同様、そりゃ目にも止まらぬ早業やった」と』

 しかし物理の世界は非情なもので、酒好きの神技を以てしてもコップの中に酒は存在していなかった。いっときの沈黙。カウンターに広がる酒を見つめてうなだれる男。屋台を開業したばかりの昇は一瞬考えた。
 『きょうの客はこの兄ちゃんで2人目。もしかしたら、山村のラーメンと、この1杯が今日の売上かも知れん。ここで仏心を出したらきょうは赤字。ばってん・・・、俺も男たい。同じ酒好き同志たい』
 昇はうなだれる男の前の空コップに、ふたたびなみなみと酒を注ぎながら言った。
 「兄ちゃん、これが最初の1杯目」
 その時の、男の驚きと喜びの顔、そしてその1杯を飲み干したときの至福の表情に、昇も満足気であった。男はそれを飲み干すと、頭を何度も下げながら去っていった。
 ラーメンを食べ終えた山村は小銭をカウンターに置きながら言った。
 「のぼっちゃん、あんたもヨカとこあるのォ」
 山村が暖簾をくぐり出ようとしたとき、中年の女が駆け込んできた。長屋の近所の主婦である。
 「昇さん!あんたんちの隣が火事ばい!」
 同時に消防車のサイレンが聞こえはじめた。山村が叫んだ。「嘉子ちゃんが!」

次号へ続く

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