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第二十四話 九死に一生(後)

前号の続き〜 
 「ガレ場のトラバース」これは登山において、避けるべき危険な行為のひとつとされています。
 「ガレ場」とは、大小の石が不安定な状態の斜面のことで、「トラバース」とは斜面などを横切ることを言います。
 当時登山に無知な私たち2人は、雨で崩落したばかりの極めて危険なガレ場を、無謀にもトラバース開始。まず、林道をふさいだ車ほどの巨石を避けて、尾根付近までよじ登りました。その間にも、つかんだ石、踏んだ石がことごとく崩れ落ちます。後方の弟は私が落とす石を避けて横に距離を置きながら昇っています。砂山の斜面を這い上ろうとする2匹のカメの如く、大量のガレを掻き落としながら、2人はようやく崩落の始まったあたりの尾根付近に取り付きました。そこで木の根をつかんだままちょっと一息。足下は不安定ながらも、空を見上げると雲1つない抜けるような青空。遠い谷底から聞こえる鴨猪川の瀬音に掛け合うように、ウグイスの声も聞こえます。ガレ場の頂の、つかの間の桃源郷。しかし目指すは大ヤマメのポイントです。2人はガレ場が終わるまで、このまま尾根沿いをトラバースすることにしました。1歩進む度に、自分の足が引き起こす小さな崖崩れを気にしながら、覚えたての3点支持(手足四肢のうち、常に三肢で体を支え、残りの一肢で次の支えを探しながら進む)を駆使しておりました。
 すると、ふと目の前にワイヤーロープがガレの間から30センチほど飛び出しています。私は「ラッキー」とばかりにそのロープを両手でつかみました。その瞬間、ロープはいともたやすくスッポ抜けたのです。3点支持を無視し、両手でロープを持ったままの私の体はバランスを失い、ゆっくりと背中から谷底の方に倒れ始めました。それはスローモーションを見ているようでした。斜面へ倒れ込みながら振り返ると、弟と目が合いました。やがて私の体は何度も回転しながら、深い谷底へ向かって滑落していきました。不思議なのは、ほぼ確実な死を前にして何の恐怖も感じなかったこと。頭を巡るのは、「弟はこのあと里へ駆け下りて人を呼んで兄の死骸を運び下ろし・・・・、大変ばい。親もそりゃ悲しむやろう、ほんなこつオレは親不孝モンばい。大砲ラーメンは弟が継ぐことになるやろう。すまん、頼んどくばい」そんなことでした。そして「もうぼちぼち岩に頭か背骨を砕かれて終わるやろう」と覚悟した途端、私の体は止まりました。何と、数十メートルも滑落しながら奇跡的に助かったのです。私はすぐさま立ち上がるや、振り返って弟を見上げ、両手を大きく振ると、腰が抜けるように座り込む彼の姿が見えました。とりあえず体をあちこちチェックしましたが、骨折も目立った打撲もありません。ただ全身泥だらけなだけ。弟曰く「岩と岩の間の柔らかい土の部分を選ぶように転げ落ちていった」そうです。天が守ってくれたのでしょうか「お前は大砲ば継がにゃならん。まだ死なせんばい」と。すると弟が小さな悲鳴をあげ、私の左の外腿を指差しました。見ればズボンに長さ20センチ位の3本裂け目が・・・・。まるで悪魔が私の足に3本の爪を突き立て、引き裂いたよう。でも皮膚に傷はない。これも不思議でした。ところが若い2人は「生きとったばい。悪魔も諦めたごたる。さあヤマメば釣ろうじぇ」・・・・。
 去年、数十年ぶりに弟と鴨猪川に行きました。やはり林道や山の斜面は近代的に整備されており、しかも私たちの車の前後は四輪駆動車の列。かつての誰もいない穴場の鴨猪川は、完全に釣り人銀座に変貌していました。こうも賑やかになれば悪魔も棲み辛くなったのか、釣り人たちの足に3本の爪痕はありませんでした。そして若くもない私たちは、すぐさま帰路に就きました。

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