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第百〇二話 パブロフの犬

 職業病というか、同じ言動を繰り返す仕事に従事していますと、思わぬところで無意識に変な行動をして、恥ずかしい思いをすることがあります。サービス業の場合、接客業務には、いわゆる「いらっしゃいませ」や「ありがとうございました」などの基本用語を、仕事中幾度となく繰り返します。その結果、仕事が休みのときでも、あらぬところで〈基本用語〉が口から飛び出してしまうことがあります。
 これは僕の母が、まだラーメン屋のオバチャンとして現役のころの話です。ある日、母がバスを降りようと、料金を払いながら思わず運転手と目を合わせたとたん、何を思ったか、運転手に向かって「いらっしゃいませ」と言ってしまったそうです。そのときの母の言葉を借りれば、~「あたしゃガバ恥ずかしかった。同じ口グセでも〈ありがとうございました〉なら運転手さんにも通じるばってん、そいが〈いらっしゃいませ〉ばい、一番カンケイナイ言葉ばい、そいもハッキリと言い切ってしもたとばい。あたしゃ顔から火の噴き出すごたった」~げなです。ラーメン屋ならではの条件反射的現象です。
 ラーメン屋といえば、うちの店には多くの学生さんがアルバイトしてくれていますが、高校生のバイトさんが間違えて「店長」のことを「先生」と呼ぶことがよくあるそうです。またある主婦のパートさんは、お客さんに注文を尋ねるときに、「セットはごはんとおにぎりがございますが、どちらに・・・」というべきところを、「セットはごはんと味噌汁がございますが」と言ってしまい、主婦ならではの言いそこないに、周りのスタッフは皆ずっこけたという話もあります。
 かく云うワタクシも子供時代、バスを降りるときの母以上の条件反射的恥体験があります。
 それは小学三年生のころ、父と行った銭湯でのこと。うつむいて頭を洗い終えたばかりの僕の後ろから「均」と呼ぶ父の声がしました。僕が振り返ると、目前に父の股間がありました。「何ね」僕がその見慣れた股間に尋ねると、その股間は何も言いません。すると今度は左の方からから「ちゃんと首まで浸かれよ」という父の声がします。実は父は横で頭を洗っていたのです。僕が恐るおそるその股間から上方に目を転じると、そこには違うオヤジの顔がありました。僕は見ず知らずのオヤジの股間に話しかけていたのです。その知らないオヤジはけげんな顔をしています。僕は思わずその股間に「ゴメンナサイ」と言いました。
 僕はそれ以来、人と話すときは股間ではなく〈顔〉を見て話すということを心に決めました。
 いま思い出しても「顔から火の噴き出すごたる」体験でした。
 古今東西老若男女、みんなパブロフの犬なんですね。

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