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第三十三話 昔ラーメン誕生秘話 その3

 かくして昇和亭は「一杯のラーメンが一軒の店舗を生み出した」というストーリーが評判をよび、お陰さまで“昔ラーメン”は 大ヒット商品となって、昇和亭の看板ラーメンになりました。
 やがてお客様からは 「Tラーメンの原点と言うべき“昔ラーメン”が、新店でしか食べれないのはおかしい、何で他店(特に本店)で出さないのか」 という声が訊かれるようになりました。
 実は、僕たちはその声を待っていました。お客様のその要望がピークに達した頃、全店一斉に昔ラーメンを発売する予定で、 その準備を進めていたのです。 オープン以来、昇和亭の厨房は社内的に“昔ラーメン調理実習研修所”として全社員の新技術習得の場となっていました。
 やがてすべての社員がその技術を習得し、昔ラーメン全店展開のための厨房用具・機器の手配も完了したころ、 僕はある人からスルドイ指摘をされました。
 その人は僕の母。すでに現役から退き、夫亡きあとの残された人生をエンジョイ中の、悠々自適の温泉バーサンです。 バーサン曰く「ひとっちゃ(僕のこと)、昔ラーメンにノットット(乗っかってるもの)、あら違うばい。 あらシナチクじゃなかばい。」
 
 僕・・・・ 「そらメンマたい。」
 バーサン・・「メンマちゃ何ね?」
 僕・・・・ 「タケノコたい。シナチクちゃ何ね?」
 バーサン・・「タケノコたい。」
 僕・・・・ 「オンナシ(同じ)やろーもん。」
 バーサン・・「んにゃ、ちごとっ(いや、違ってる)。」
 ・・・
 
 と、まあこんなやりとりでありましたが、その途中で僕はハタと気づきました。 そういえば母の言う“シナチク”とは“支那竹”のことで、昔の久留米のラーメンにはコレが乗っていました。 らーめんが“支那そば”と呼ばれていた戦後間もない頃は、久留米の屋台のオヤジさんにとってメンマなどの中国食材など手に入れる術もなく、“やむなしメンマに似て非なるもの”、いわるる“シナチク”を代用としていました。 それは決して“支那の竹”ではなく、“八女”の竹でした。久留米の隣町・八女特産の“干し竹の子”を水で戻し、千切りにしたあと塩と若干の醤油で味付けをして、油で炒めたものです。
 さらに、それは食紅で真っ赤に染められて“シナチク”という名で“支那そば”にトッピングされていたのです。 しかしその八女の“干し竹の子”も、昭和三〇年代後半から次第に姿を消し始めました。 そこで、これまた“シナチク”の代用として、久留米の屋台のオヤジさんたちが次に白羽の矢を立てた食材が、 皆様ご存じ“紅しょうが”であります。 「とんこつラーメンには“紅しょうが”」という現在のラーメン界の常識、このルーツが何と、八女の“干し竹の子” だったのです。
 僕はショックでした。 完成したと思っていた“昔ラーメン”には、トッピングの部分で大きな落とし穴があったのです。自慢の大リーグボールが、花形満にかるくホームランされてしまった星飛雄馬のような衝撃を受けた僕は、 目前の昔ラーメン全店展開の計画を中止し、“干し竹の子”探しの一人旅に出ました。(実は隣の八女あたり)。
 そして長い食材探しの行脚(?)の果てにたどり着いた村が、福岡県内最後の秘境と言われた「矢部村」でありました。  ~だが、そこにはトンデモナイ事態が待ち受けていた!

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