ラーメン今昔物語(34) −『昔ラーメン完成』− 

ラーメン屋のH.K(前号からの続き) 
          
 福岡県八女郡矢部村。この村は、清流・矢部川の源流域に位置し、大分とのの県境にそびえる高峰・釈迦岳(1231m)の山懐に ひっそりと息づいてきた“秘境”の名にふさわしい谷あいの小さな村です。 村の主幹産業はもちろん農林業。世帯数はわずか642世帯で、村民1,884人の過半数を高齢者が占めるという典型的な 日本の山村であります。僕がこの矢部村を訪れたのが平成十二年の寒い冬の日でした。

 山肌にへばりつくようにうねった矢部川沿いの道を、足のすくむような日向神峡を眼下に見ながら、 ひたすら車を走らせてようやくこの村に辿り着きました。 この日、僕は知人の紹介で村長宅におじゃましたのですが、この村長さん(厳密にはこの翌年に村長になられた方なのですが 文中ではあえて“村長さん”とします)が、また素晴らしい方でした。初対面で、しかも僕のようなイキナリ都会(?)から やってきたラーメン屋のオヤジを、怪しみもせず家族総出で迎えていただき、日本一の栄誉に輝いたという八女茶で もてなしてくれました。
  僕はこれほど旨い茶を過去に飲んだことがなく、その感激に酔いしれながらも、僕がここに来た目的である“干し竹の子探し”の話と“昔ラーメン”にまつわる亡き父の話を熱っぽく語りました。

  ところが僕は自分の話を真剣に聞いてくれる村長ご一家についつい甘えてしまい、いつしか時間の経過を忘れてしまったようです。 ふと気づくと、懐かしい縁側のガラス窓越しに見える向かいの山が、すでに夕日の色に染まっていました。 あわてて僕は、このもてなしの謝意を述べ、今日はひとまず辞そうとすると、すかさず村長婦人が「夕食もどうぞ」。 僕は「トンデモナイ」と重なるご厚意に恐縮しながらも、チャッカリご馳走になってしまったのでありました (自家製の酢味噌で食べる山菜は絶品でした)。 

  帰路、すっかり暗くなった山道を走りながら、 僕は3年程前のこのコラム「北海道ラーメン行脚」以来の辺境の村と、そこに棲む“タダモノではない”人々に出会った感動、 さらに、この出会いは単なる食材の取引で終わりそうもない“ただならぬ出会い”になりそうな予感に包まれたのを憶えています。

  やがて冬も終わり、釈迦岳山頂の雪も消え、早春の雪渓に咲くフキノトウが山菜の主役をタラの芽に譲るころ、 僕は再び矢部村を訪れました。実はこの日、村長さんの息子さんの計らいで、干し竹の子の件で村中の農家に集まって いただいたのです。当然僕は、前回村長さん宅で語ったとき以上の情熱でその場に臨みました・・・

  ところが、 その村長さんの息子であるTさん自信が、僕の思いを、ある意味では僕以上に熱く語ってくれたのです。 おかげでその会合は、唖然とする僕を尻目にスルスルと進行し、やがて全会一致で、Tラーメンのための干し竹の子生産 (年間数トンに及ぶ)が決定してしまいました。何とも表現し難い、有り難い気持ちでした。 “干し竹の子”これが一杯のラーメンに乗っかると“シナチク”という名のわずか十グラム程の食材になってしまいます。 でも、このひとつまみの食材には、実に沢山の人たちの努力や思いが宿っているのです。

  “昔ラーメン”。 その昔、僕の父が作ったラーメン、その復活には長い道のりがありましたが、沢山の人たちの温かい協力のおかげで、ついに完成しました。このラーメンの完成も、またこのラーメンの開発がきっかけとなって誕生した店昇和亭も、父はその完成を見ることなく他界してしまいました(昇和亭開店八ヶ月前)。 もし父が生きてたらこのラーメンをどう評価するでしょう。僕には聞こえてきます。 もし皆さんがTラーメンで昔ラーメンを食べる機会があって、ふとこの物語を思い出していただけたら有り難いです。
その時Tラーメン初代の声が聞こえるかもしれません。

‐次号 乞うご期待‐